ある物語の終わり~嵐の活動休止によせて~
このブログはもともと、二次元三次元問わずアイドルについて語ろうと思って作ったブログで、(なのでタイトルが嵐の楽曲『Believe』の歌詞引用になってますというジャニオタ仕草)
最近はそうじゃない記事のほうが多かったんですけど、やっぱりこの話題は、避けては通れないし、いつかは書かないとな……と思ってました。まぁずっと避けてたんですけど。
でももうこんな年の瀬だし、最後の一日だし、軽く触れておきます。
私は、アイドルを推すということは偶像崇拝に似ていると思っていて、いや私自身が彼らのことを神様だと思っているわけではないのだけれど、彼らの人間性と、5人の関係性がとても好きだった。彼らの生み出すものがとびきり好きだった。何よりも、彼らの純度100%とも言えるライブが本当に本当に大好きだ。夢が、願いが、――かれらの命が。そこにぎゅっと凝縮されているような気がして。
私はそんなふうに、彼らに物語を感じていた。
その推し方はとっても楽しかったし、自分でも私らしい推し方だなって思う。
だけど同時に、それは私の中で、一つの負い目にもなっていた。
私は嵐も好きだし、二次元のアイドルも大好きだ。その推し方に、差異はない。どちらも、三次元だから、二次元だから推しているのではなくて、彼らが彼らだから好きになったし、応援したいとも思った。彼らが紡ぐ物語を、未来をこれからもずっと見ていきたいと思った。
でも、そんな彼らには明確な違いがある。
二次元の彼らは、良くも悪くも、『自分』という物語を見せるために作られた存在だ。言うなれば、ファンである私たちのために作られた存在だ。人生を物語として、エンタメとして昇華する、もともとそういった存在として生まれた、彼ら。
でも、三次元の彼らはそうではなく。彼ら自身は、彼らの人生は、彼らのためのものであるべきだ。
とっても概念的な話をしている自覚はあるし、うまく伝えられている自信もない。人前に立つ仕事を選んだ時点で、自分自身まるごと見世物になる覚悟をするべきだという意見があるのも分かる。それでお金を取ってるんだからって。でもそれなら、その生き方をやめる/やめない、自分の人生を自分のものとして取り戻すかどうかのその決断だけは、本人の自由になるものであってほしいと、ずっと思っていた。
本来なら自分のための人生であるはずなのに、その人生から勝手に物語を感じて勝手に激重感情を抱くことが、彼らの人生を消費するみたいで、そのことにずっと、なんだか罪悪感を感じていた。
だから、今回こういう終わりを迎えて、正直に言うとホッとしている自分がいる。彼らがそういう決断を出来て、良かったと思う。
でも、そうやって安堵するのと同時に、「彼らは本当に綺麗な形で終わりを迎えたな」と、やっぱり物語の部分を評価して、推している自分も確かに存在している。やっぱり私は、彼らの人生という物語に触れられずにはいられないらしい。たとえそのせいで罪悪感を抱えることになっても。
難しいよね、人を好きになる、ということは。
嵐の物語は、いったんおしまいなんだなぁと思う。
でもハッピーエンドのその先も人生は続いていくし、物語に続編が発生するのはそう珍しいことではないから。
いつの日か、もしまた自分自身を表に出してもいいと思うときが来たら。いつかでいいよ、もしきたら、でいいよ。
また、会えたら嬉しいなって。思ってしまうね、どうしても。
その気持ちが負い目になったとしても、やっぱり5人のことが大好きだからさ。
あとは、紅白と配信ライブのみ。
きっと私は泣いてしまうけど、最後の1ページまで、彼らの物語をしっかりちゃんと見届けたいです。
今日を越えてもテレビに出てくれる推したち、まだその仕事を選んでくれてありがとう。
ちょっとお休みする推したち、自分の人生をとびきり楽しんでください。
今日までありがとう。
あなたたちの歩んできたこれまでの道のりが、本当に好きでした。